月別アーカイブ: 2月 2015

医学に考えること

1月の忙しさに比べ、2月はインフルエンザも落ち着き比較的ゆっくりしています。その為か診療後も体力が残っており、良く勉強出来ます。最近は医学書を読んだらそれと同じだけ他の読書をするように心掛けています。自分の仕事に関するその事だけをしていると非常に視野が狭くなるのを感じています。どんな仕事でも同じでしょう。自分達が生業としている医学は科学です。科学の強いところは、主観を排除してあくまでも客観的立場に立って観察し、その普遍性を構築するところです。EBM(根拠に基づく医療)や、統計に基づくガイドラインなど万人を対象にできる医学です。ところが医学の最前線では、度々それが通用しない場面に遭遇します。それは来院される方すべてに個人的な物語があるからです。科学が放棄した(自分との関わり)を再度拾ってこなければいけないのです。家族を亡くした方に「どうしてあの人が死んだのか?」と問われた時に「生物学的に人間の平均寿命に近く、喫煙というリスクの高い行為をしていたからです。」と学問的に答える人間ではなく、その方の心を一番和らげる「間」や「空気」をその場に応じて作れるような感性を持ちたいと思っています。(今はできてないなー。皆さん申し訳ありません…。)脳死の議論も第三者としての客観的、科学的観点だけで法制化するような事はせずに、少し「二人称的な」ファジーな部分を残しておかないといけないような気がします。以上の事は、最近読んだユング派の心理学者河合隼雄先生(故人)の著作「心の深みへ」、「生と死の接点」、「私が語り伝えたかった事」から考えさせてもらいました。

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

認知症の方の心象世界は?

引き続き認知症についてです。平均寿命が伸びると認知症になる方が増えるのは仕方がないことかもしれません。我々も近いうちになる可能性が高い認知症ですが、認知症の方は惨めで不幸ばかりなのでしょうか?哀れみを受けないといけないのでしょうか?認知症の方の世界は無明、暗いのでしょうか?外部から見ると
あまりに絶望的に思えるかもしれません。認知症は、今までしっかりとした人格を持った方が変化してくるため、肉親をはじめとした周囲は戸惑います。また、認知症の初期は、自らの変化と周りの対応の変化、自らの今後に不安がいっぱいになります。取り繕いをしたり、BPSDと言われる問題行動が起こるのも、これが原因になることが多いと言われています。しかし、暫くすると、みなウソのように落ち着いた仏様のような表情になります。眉間のシワもとれ、認知症になる前よりも余程温厚になる方がほとんどです。これは何故でしょうか?認知症になると、物の認識が変化してくるのでしょうか?それを考える前に認識について考えます。人間が物を認識するシステムは古来から沢山の哲学者、心理学者、宗教者が研究してきました。例えばドイツ哲学のイマヌエル.カントは「人間は対象を元来備わっている(感性と呼ばれる)時間と空間という枠組みでしか認識できない。またそれを悟性の働きによって整理、統合し、この(12のカテゴリーと呼ばれる)フィルターにより対象を概念化する。この元来備わっている感性と悟性を通 じて得られた経験を、理性によってあくまでも統制的に理念として構成化する。」と言いました。この感性、悟性、理性が障害された認知症の方はどのように対象物を認識するのでしょうか?そもそもこのフィルターがないなら認知症の方にとって、我々が見ている社会は存在しないのではないか!むしろ認知症の方が見ている世界の方が真実なのでは?次に東洋思想でいうと、仏教で言うところの五蘊という考えがあります。(色受想行識の5つ、にんげんを構成している5つのもの、すなわち 色 – 人間の肉体、受ー感受作用 、想 – 表象作用 、行 – 意志作用 、識 – 認識作用)このうち受想行識が認知症の方で衰えて「無」になるなら、むしろ悟りに近付くのではないか、とも考えられます。こう考えると、ボケるのも悪くないかな、と思えてきませんか?

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

認知症で悩まれている御家族の方へ

先日「別離」という映画を観ました。テヘランが舞台のイラン映画で、夫婦間の離婚をテーマにしていますが、その原因の1つにご主人の父親の認知症問題があります。イランでは介護保険制度がないため、介護の主役は家族が全部しないといけません。離婚したため介護は働き手であるご主人がしないといけませが、もちろん仕事があるため出来ません。そのため介護をする家政婦を雇うのですが、不慣れな家政婦は、尿失禁、徘徊、不潔行為などのBPSDに対処出来ずパニックになります。そして眼を離した隙に徘徊、車にはねられそうになります。それを聞いて怒ったご主人が家政婦を突飛ばして、その家政婦は妊婦だったため流産、訴訟に発展するといったストーリーです。介護の負担が招いた悲劇ですが、今の日本でもときどき新聞で見るように、介護疲れによる殺人、心中などが起こっています。真面目で責任感が強く、親の介護を他人に任せている負い目を感じる方などが、または介護を、介護保険の制度の知識がないと起こりうることです。困っている方は、是非我々かかりつけ医に相談してください。我々かかりつけ医は認知症の初期から接することが多く、沢山のトレーニングも受けています。必要な方はまず電話でお問い合わせ下さい。

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

うまれか??、育ちか??

「そして父になる」という映画が先週TVであってました。出生時に取り違えらた福山雅治、尾野真千子(演じる)夫婦の子どもとリリー・フランキー、真木よう子夫婦の子どもが6歳になった時にその事実が判明、遺伝子上の子どもが大事か、育てた子どもが大事かでお互いの夫婦の悩み、葛藤を描いている映画です。さあ、どちらが優先されるのでしょうか?ヒントになるのは(人間がアイデンティティを形成するのに本当に大事なのは血統なのか、環境なのか。)という問でしょう。または歌舞伎役者やスポーツ選手で親子2代で活躍しているところをよく見かけます。あれは血統なのか?育った環境なのか?という問題です。それらでどちらの子どもを選択するかを判定するのは倫理観や愛情、法律など難しい問題が関係してくるので一概に言うべきではありませんが、あくまでも自分が抱いた生物学的興味としてです。そこでヒントになるかもと思い出したのが、免疫学者の多田富雄先生が書いた「生命の意味論」という1997年の本です。再読すると面白いことが書いてありました。先生は免疫学の世界的権威であり作家でもあるため、免疫の例えで哲学的なアプローチをされます。免疫というのは「自己」と「非自己」を識別する生体の反応で、バイ菌などの「非自己」が侵入してきた時は免疫反応をおこしこれをリジェクトします。しかし、この反応を起こす為には、その前提となる「自己」をはっきりと把握認識しないといけません。つまり免疫は「自己」を認識する行為の裏返しなのです。それでは人間はいつ、どこでこの「自己」を認識するのでしょうか?1つめの自己のキーワードは「HLA」(MHC)です。HLAとはヒトの白血球の血液型のようなもので、免疫細胞が自己と非自己を識別する基準になっています。所謂遺伝的に規定されている変わることのない「自己」判別機能です。
2つめの自己のキーワードは「T細胞」にあります。T細胞は、胸腺で作られ選別されます。胸腺は心臓の前、胸骨の後ろに存在するメッシュ状の臓器で、途中自分を攻撃する激しいT細胞や役に立たないT細胞を排除し、きちんと「自己」と「非自己」を判別できるT細胞のみを生産します。また感染症などと反応しているHLAを一緒に認識、変わっていく所謂後天的な「自己」判別機能です。この2つの先天的な自己と後天的な自己、果たしてどちらが大切なのでしょうか?実はこの2つの自己の同一性こそが非常に大事なのです。この同一性が破綻するとたちまち生体は深刻な状態に陥ります。結論としては免疫の世界でも、先天的も後天的もどちらも欠かすことのできないもので、その同一性も大事であるということです。生体でも答えが出ないことなので
人間社会出でないのも当然かな。少しはためになったでしょうか?余計解らなくなってきた?自己同一性(セルフアイデンティティ)形成に励みましょう!

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

マラソンのお手伝い

DSC_0803.JPG DSC_0804.JPG DSC_0802.JPG DSC_0805.JPG

今日は北九州マラソンでした。今回は選手ではなく救護ドクターとしての参加です。メーテルやフナッシー、バットマン、マリオなどが走っていました♪

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

無差別微笑期

先日、長い間当院に来ていただいていた方が亡くなられて通夜に行ってきました。亡骸のお顔を拝見させて頂いたところ仏様のような穏やかな表情でした。生きるという業からほどけた本当に安らいだ微笑でした。哲学者の鷲田清一さんの本に書いてあったことですが、人間の生後3ヵ月くらいの赤ちゃんには誰に対しても笑顔を向ける(無差別微笑期)という時期があるそうです。人生の最初と最後に我々は微笑できる!何かホッとすることと思いませんか?あの世に還られた地域の先輩に最後に教えて頂きました。ありがとうございした。合掌。

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ